むらさきmusicラボは、コドモとコドモ心を持つみんなが集まる音楽のお城

私の音楽ロード

【ラボは居場所】

むらさきmusicラボには、リトミックや音楽に触れ合いながら自由にのびのび育っていきたい子たちが集まってきています。

ピアノ教室、音楽教室というよりは、むしろ「音楽のある居場所」に近いかもしれません。

キャッチフレーズは、「コドモ、オトナを問わない音楽のお城」です。

私は、「教える」ことを生業としてはおりますが、幼少時、私自身は、教わることが苦手で、できれば「ひとりでそっとしておいてほしい」と思う時間がよくありました。理解できないポイントがある時に、ヒントを自分で見つけている時などは、「少し時間さえ貰えれば脳内を整理できるのにな」と、感じつつも大人に「ちょっと待って」とうまく言えずに黙り込んでしまうことで、「この子は変わっている」と思われていたことと思います。

自分の場所を作れる機会があったら、それぞれのペースにあった時間を与えてあげられるような安心のできる場所が欲しいと思っていました。この項は、そんな気持ちのきっかけとなった私のこども時代から話を綴らせていただこうと思います。

【こどもの頃の私の生きづらさ】幼児期

私は「圧迫的に教わること」「じっと座り続けること」「脳内のイメージを言語化して口頭で説明すること」が実は今でも得意ではありません。今は、仕事を通して苦手なことをバイパスのように隣り合った似た機能を使用して補うことで、どうにか間に合わせることができるようになりました。

今風に言えば、きっと私は、発達に凸凹があり、目からの情報、耳からの情報というくくり方があると思います。

ウィスク検査を受けたなら、耳からの情報が強く、視覚的な情報には弱いという結果がでると思います。

今でも簡単な暗証番号さえ目からでは覚えられなくて、一度自分で読み上げて音声として記憶しています。そうやって、自分自身で機能を補うことで日常生活に不便のないように工夫をしているのです。

今は、仕事で無声映画の伴奏もしており、映像をひとつの作品で長い時には2時間くらいの無声の映像を記憶して演奏をあわせていますが、それは映像を記憶するというよりは、動きをオノマトペ化して言葉に置き換えたリズムパターンを脳内で音声再生したのと自分の演奏をあわせています。

このように、人生経験を積むうちに、いろんな補助作業はできるようになるわけなのですが、まだ人間経験の浅いこども時代は本当に不便でした。

例えば、平仮名の「む」という字は、なかなか覚えられませんでした。他の平仮名よりも、「動」的なイメージが強いので、混乱してしまうからです。

一方、幼稚園入園前の3歳くらいの時、「右」と「左」の区別は、幼児ならば「お箸を持つ方が右」など、簡単な動機付けで覚えられるのに、私は、「ハイドンのびっくりシンフォニー」をエア弾きしないと判断できない状況でした。耳で聴いた音声の記憶の方が有利だからです。「右」と指示されてからすぐさま謎のジェスチャーをするので、よくふざけていると怒られました。

幼稚園園長時代、「ふざけた態度」と思われがちな発達グレーの子たちにも、それぞれ理由があることを、私は誰よりも共感することができました。

【絶対音感がある生活】小学低学年

電話番号は、すべて階名読みのメロディで記憶していました。実家の電話番号は、今でも「みどれれどどれれみど」と覚えています。

玄関のピンポンの音程も、自宅、おばあちゃんちなど全て記憶していて、テレビドラマで同じ音程使用を発見して嬉しそうに階名で叫ぶ。しかし、誰からも共感されない寂しさもありました。

祖母、両親ともに国立音大卒という音楽一家に育ったので、まだ絶対音感がある子に理解があったと思います。音叉がわりに音を出したりと、親の役にたつこともあることで、少しずつ自己肯定感もでてきました。

自宅では、母がピアノ教室をしていたので、耳からいろんな曲が聴こえてくるので、私は楽譜を読むことも、誰からも教わることもなく耳コピでレッスン生徒の課題曲からCMソング、歌謡曲まで、なんでも弾いて遊ぶようになりました。そんな生活が小学4年生までつづき、ある日、私はほとんど楽譜が読めないことが母にバレてしまいました。

【分離唱、即興演奏】小学高学年

ピアノ教室の家の娘なのに、楽譜が読めないのは一大事ということになり、小学5年生の時に、母の国立音大時代の同級生でもあった藤原弘枝先生に師事することになりました。当時、私は耳コピでピアノソナタも弾けていたのに、楽譜が読めないばかりに「バイエル」からやり直すことになりました。

藤原先生は、分離唱」という佐々木基之先生の理論の実践者で、同時に和声を聴きとりドイツ音名でいう訓練もしてくださいました。HDGの和音を「ハデゲ」、CFAを「ツェッファ」と発音したりということを新しく覚えました。

即興演奏も、レッスン中にいろいろと弾かせていただきました。

「まりちゃん、今日のお天気を弾いてみて」

そんなお題を先生が出してくださるのです。

音や和音も、絶対音感で、もともとわかりましたし、即興演奏もあそびとしてずっと時間を潰してきたことなので、私にとってレッスンは、楽譜を読んでその通りに弾くこと以外は、教わらなくてもあらかじめできることだった印象でした。でも、今になって考えてみると、小学高学年期にそれまで「あそび」だったことを「レッスン」として先生が定着させてくださったことで、それが私の「スキル」にはじめてなったのだと思います。先生に出会わなければ、私はピアノが嫌いになってとってくにやめていたと思います。

【私はなんで音楽をやっているのだろう】中学生前期

明治生まれの祖母は、ハイカラで自分がオペラに没頭していた頃の話を楽しそうにしてくれていました。その血を継ぐ母は、努力派で、50歳くらいまで、ピアノのスキルが落ちないようにショパンの英雄ポロネーズを暇さえあれば稽古をしていました。

一方、父は音楽的には突然変異種。昭和13年に宮城県の田舎で生まれて、高校時代にはじめて「ピアノ」というものが高校に置かれることになるにあたって、その誰も弾けないピアノを弾く係をおおせつかって、寒い講堂の中で手袋をしながら試行錯誤でピアノを学んだそうです。音大に入ったあとも米軍キャンプでJAZZピアノを弾いてお金を稼ぐ苦学生でしたが、私の目線だと父は、教職の傍ら、クラシックレコードを収集したりして本当に音楽が好きだったのだと思います。

「音楽への愛」といえば、私は高額なレッスン料の音大のピアノの先生に習いにいかせてもらってはいるものの、それは自分で選んだ道ではなかったために、自分はなんで音楽をやっているのだろう?とまわりの皆が、高校進学など将来の夢を模索している最中、もやもやとした気持ちになっていっていました。

【武蔵野美術大学からサンバの音色】中学生後期 渡辺亮さん、故 小澤敏也さんとの出会い

中学時代に、中学校の隣だった武蔵野美術大学の中南米研究会サークルのサンバ演奏に出会います。そこで、美大生だったビリンバウを演奏していた渡辺亮さんの印象が強烈に胸に刺さりました。音楽って、クラシック音楽だけじゃないんだ!民族音楽ってしびれるなぁ〜。そんな気持ちになりました。

後からわかったのですが、その場所には、後に師匠と弟子、共演者、マネージャーなどいろんな関わりを持つパンデイロ奏者 小澤敏也さん(故人)も、その場にいたことがわかるのですが、それはまた後の話です。

クラシック音楽ではなくて、民族音楽をやってみたいと親に相談するも、「そんな高度なことは、まず音高、音大に入ってから考えるべし」といういかにも昭和な説得をされてしまいます。YouTubeなどの情報がある今とは違う価値観だったのだと思います。

【大人な音高生たち】音楽高校入学

ラッキーなことに、なんとか母の希望どおり、国立音楽大学音楽高校の普通科に入学することができました。

音高入学第一日目の自己紹介での印象的なこと。

「私の特技は、ピアノ….だったのですが、もうこの学校に入ったのでピアノは特技ではなくなりました。」みたいなことを言っている人が何人もいたこと。

『みんな…。音楽が本気で好きな人たちなんだ…..。」

と、ちょっと私はどうやってここで生きていったら良いのか不安になってしまいました。休み時間も嬉しそうに音楽のこと、中学校時代に活躍していた合唱のことなど話す女子高生たち。

朝、登校すると、

「ねぇ、昨日、夜ヒット(夜のヒットスタジオ)見た?」

と、当たり前のように聞いてくれる友達もできました。

でも、私は、何も会話が続かない。YMOや洋楽のことを、中学校時代は男子と会話することができたけれど、音高の皆さんが好む音楽系の共通の話題が見当たりませんでした。

でも、長年レッスンを積み重ねて、様々な人間性とアンサンブルをこなしてきた音楽のプロの15歳の皆さんはコミュニケーション能力が高い人ばかりなので、お弁当の時の会話ネタが、犬の散歩くらいしか提供できない私のことも、なんとなく包み込んでくれているように感じられました。

今風の言葉でいえば「モブキャラ」だった私を「大人な音高生」たちが仲間として受け入れてくれたこと。みんなと一緒に音大に内部推薦で進学するためには、努力しなければならないことが重くのしかかる高校生活がスタートしました。

【オルガンレッスンの挫折】高校時代

小学6年生の時に銀座YOSHINOYAでオルガンシューズまで買ってもらって習いはじめたオルガンは、この頃には先生に「もう来なくていいよ」と言われてしまいました。教会のオルガン演奏奉仕は、音大卒業までなんとか続けていました。無声映画楽士としては、オルガンタッチは有効なスキルなので、一時的にでも習得できたことはありがたかったのですが、私は先生の圧迫的な指導方法が恐怖でした。イタリアの修道院で勉強されていた優秀な先生による毎回のダメだしと、「音楽に向いていないと思う」と、とうとう言われてしまいそれにはさすがの母も納得してやめることを許してもらえました。自分の口からは、とうとう「実は音楽高校に通っている」ということさえ、先生には言うことができませんでした。私が「ピアノを嫌いにならないために」かなり神経を使うルーツは、このあたりにあると自己分析しています。

【ズルばっかりのピアノ練習】高校時代

音高には、ピアノの試験もあったので、ピアノを練習することもどんどん苦痛になっていました。何よりも嫌だったのは自宅での聴音(楽譜をノートにとる訓練)や、新曲(初見で歌うソルフェージュ)の稽古を母につけられるのが厳しすぎて泣いてしまうほどでした。

ちょうど1984のロサンゼルスオリンピックの頃です。母にピアノの練習を毎日2時間するように、防音のレッスン室に閉じ込められる日々がありました。ピアノの成績がDで、音大推薦が危ないのは現実でした。ピアノは好きではない(当時)ながらも、私には知恵がありました。レッスン室には、犬と猫も一緒に付き添って入ってくれています。勇気づけられます。なんとか、なんとかピアノの音だけでも、連続して2時間、醸し出しさえすればなんとかなると思っていました。

そして、いく日か経って….。バレました。

ある日、家族が私のピアノの練習を確認しようとドアを開くと、両手でピアノを弾きながら、床に広げた漫画雑誌を足指でめくりながら読み耽っている私の姿が…。

今にして思えば、その頃の訓練のおかげで、私は今、ピアノを弾きながら普通に喋ったり、無声映画ではキーボードのアサイン操作などが自在にできるわけなのですが、当時は「ピアノを真面目にやらない悪い子」ということで、しこたま怒られまくりでした。

嗚呼、漫画が描けたなら…。その時の我がペットたちの愛らしいリアクションが皆様にお伝えできたのに…。グランドピアノの上で目を三角にしつつ、背中をおったててびっくりした黒猫の表情。足元に申し訳なさそうに眉毛を出して鼻先を隠した犬の顔。今でもありありと浮かびます。

時が過ぎて幼稚園に就職して、こどもたちに絵本を読み聞かせるときに、

「そうだ!ピアノを手だけで自動演奏モードにすれば絵本を読みながらピアノが弾ける!」

と、気付き「まり先生のピアノ即興弾き読み聞かせ」が始まりました。お弁当の支度をさせる指示を出しまくりながら、両手だけは強い口調を全く違う穏やかなベートベンを演奏する私の幼稚園風景は、こんなバックグラウンドで得たスキルから誕生したことになります。

何はともあれ、「音大に入るための音楽」の勉強は切なかったです。

【私にも特性がみつかる!】高校時代

ピアノの成績は悪くても、絶対音感のおかげで部分的には音の感性では光るものがあったとのことで、音大推薦は一般入試では、適性検査のある教育II類(リトミック専攻)に進むことになりました。私の特性を見抜いてくださった花村充先生、ありがとうございます!

【ここはパラダイス】音大 II類と打楽器アンサンブル同好会

II類に入ったら、私みたいな子がいっぱいいました。即興演奏ならいくらでも弾けるみたいなそんな子は、エレクトーン出身の子が多かった印象です。放課後は、やっとサンバができる!と思って、「専攻外 打楽器アンサンブル同好会」に入部。ここでは、いろんなオーケストラ曲のマリンバアレンジなども任せてもらえて、自分のできることで羽を伸ばして音楽で遊ぶことができました。国立音大の3号館の専攻外の打楽器室は、楽器の宝箱です。マリンバも鉄琴も、なんでも触り放題!天国か!と思いました。

音大に入ってはじめてのピアノのテストは、音高の冷たくて暗い印象とは異なり、ラテン系でした。試験官の先生が演奏を聴いてくださる時に、「パッ」と顔が明るくなり、もしかして私の音楽性を認めてくださるような気がしました。それからは、試験官の先生をオーディエンスに見立てれば良いということを目標にして、ストーリーのような音楽性のある曲を試験曲に選ぶと、なんと!私でもピアノでAをとることができました。

【楽器学】郡司すみ先生

音大には、いろんな魅力的な講義もありました。「文化人類学」で、アフリカの民族楽器演奏も聴くことができて、自分でもいつか演奏してみたいという興味がわきました。

18歳にして、やっと私は、自分から音楽が好きになってきたように感じていました。足りなかったのは「自由」なんだ!と気づいて、自己肯定感もあがってきました。

「楽器学」の講座の夏休みの宿題に、「自作での楽器づくり」という課題がでて、私は、中学生時代に印象に残った「ビリンバウ」を緑色を基調とした丁寧な彩色をしたものを提出すると、郡司先生に、「これを私にください」と言っていただき、音大の楽器博物館の生徒作品の展示コーナーに展示していただきました。

楽団「ぺとら」を一緒に創設した古楽歌手・ソルミゼーションの辻康介さんは、その展示をみたことがきっかけで友達になりました。

「楽器学」では、無声映画時代のシアターピアニストや、ひとりでピアノや太鼓など数種類が演奏できるように工夫されたマシンのような鍵盤楽器装置の映像も紹介していただきました。

祖母にそのことを話すと、

「そうそう、昔は無声映画だから、即興でなんでも弾けるまりちゃんみたいな人はぴったりだわね〜」と何回も何回も生まれる時代を間違えたね〜という風なやりとりをしていました。

そうか!無声映画が私にはむいているかもしれないな。

と、そんなことも思った音大時代でした。

【リトミックの仲間たち】恩師 中館栄子先生

音高時代に引き続き、時折、宇宙と交信するようにバグってしまう私でも、音大のリトミック、打楽器の仲間たちは受け入れてくれて本当に楽しく音楽で交流をすることができました。

II類の同じゼミの縦のつながりや、そのまわりに集まる他の学年にも音楽友達、リトミック友達ができて、即興で一緒にセッションをしたりする遊び、音と動きでアンサンブルをしたり、「プラスティック・アニメ」(音楽を視覚化する音楽表現)の仲間もどんどん増えて、いつのまにか私は音楽が見えるような気持ちになってきました。

ゼミの恩師、中館栄子先生のご指導で、歴史的舞踏にも親しむことができました。

【幼稚園とこどもの城】

新卒で、幼稚園専任のリトミック講師を1年間。その間に玉川大学の通大で幼稚園教諭II種を取得し、続けて1年間という短期間で幼稚園II種(園長資格)を取得しました。その頃には、自分なりの勉強方法も身につけていたので、今、お読みになっているこの記事のように文章も綴ることができるようになっていました。

新卒から翌年、翌々年は、幼稚園の講師を週に数回で、空いている日に「こどもの城」で音楽アルバイトをすることになりました。サンバ演奏をして時給をもらえる憧れの職場にオーディションで合格します。そこで中学時代の憧れのサンバのお兄さん、渡辺亮さんと再会し、後にパーカッション全般の手ほどきを受けることになる小澤敏也さんとも出会います。その後、幼稚園園長資格取得(I種)を経て、幼稚園に常勤となり、経営上の理由で園長資格のある私が20代で園長就任となり、幼稚園には合計28年間勤務。そのうち21年間を園長として研鑽を積ませていただきました。

【子育てひと段落 音楽仲間が欲しい】楽団ぺとら設立 バグパイプ近藤治夫さん

仕事をしながらの二人の子育ても、少し落ち着いた頃。楽器博物館で私の創作楽器を見つけてくれたことから友人になった辻康介さんと楽団「ぺとら」を立ち上げることになり、バグパイプの近藤治夫さんと一緒に活動するようになります。2017年のことです。その後、近藤さんとDUO中心となり、主に大道芸活動をしていました。外国人観光客との交流など面白い経験を積みました。その後、「こどもの城」でのバイト仲間だった小澤敏也さん(故人)が、ぺとらにブラジリアンパーカッションで加わり、「ぺとら」は、ライブハウスや学校公演まで活躍の場を広げました。

【師匠の死、幼稚園閉園、こどもの城閉館】

「認定こども園」の法改正により、保育園、幼稚園のそれぞれの立ち位置が大きく変わってきて、完全給食、延長&夏期保育、防火対策などの補助金の基準が大きく変わることから、家族経営だった小さな幼稚園は、創立50周年をもって閉園するために、ゆるやかに園児募集を停止することなった2013年に、師匠でメンバーで、私がマネージメントのお手伝いをしていた小澤敏也さんが、膵臓癌のため虹の橋を渡られました。晩年は、ライブ活動や、ライオンキングの出演(当時パーカッションBレギュラー奏者)を降板されて、毎日のように幼稚園に私に託す楽器を持参しては、稽古をつけてくれました。

中学〜高校時代、あんなにピアノの練習が嫌いだった私に、40歳をすぎてパンデイロ(ブラジルのタンバリン)やジェンベ(アフリカの太鼓)などの特訓が始まりました。大学時代、打楽器アンサンブル同好会に籍をおいていましたが、音大の打楽器ですから、スティックやマレットを使うモダン楽器が中心です。アフリカやブラジルの楽器の名前を覚えること、リズムパターンを覚えること、そして、楽器のリペアなども徐々に理解していくようになりました。

死への準備をひとりで完璧に段取ってから師匠は亡くなり、師匠が残してくれた楽器の一部を引き取りました。そして、幼稚園は閉園し、ひとつの保育室を残して園舎は取り壊し。残った部屋が「むらさきmusicラボ」です。しばらくして、「こどもの城」も閉館。楽団「ぺとら」は、こどもの城にミュージシャンとしても何回も呼んでいただいていて、ラストウィークも演奏をさせていただき、幕閉じに参加させていただきました。「死」「閉園」「閉館」の3つのことが続けておきた数年は、2016年のむらさきmusicラボの設立時ともかぶります。歴史の重みを感じるところです。

【むらさきmusicラボ 2016年スタート】

ラボは、こどもの頃、音楽の練習が大嫌いだった私が逃げ込みたかったシェルターのようなイメージで運営しています。こどもたちの居場所になるように。肯定してあげて、援護をしてあげることばをかけてあげる場所でありたいと思っています。

そして、50歳を過ぎて今、私は今、人生で一番、キーボードの練習をしています。無声映画で2時間の上映作品を担当する時には、毎日2時間を弾く筋力をキープしなければ、上映当日に納得のいくパフォーマンスができないからです。

無声映画については、別ページに詳しく記録させていただいています。現在まで(2022年)100本ほどを音楽制作、演奏を手がけています。

幼稚園時代から、楽器づくりはずっと継続していましたが、ラボになってからは企業協賛のワークショップなど、ずいぶんとお店やさんぽくなってきました。今は、「シェケレ」に力を入れています。

リトミックも公民館でのシルバー向け市民大学や、創造団体さま主催の会など、いろんな場所に伺わせていただくようになりました。

保育園への出張指導も、最初1園だったのが、今は4園。そして、毎月1回の保育士研修も担当させていただいています。

YouTubeも保育園依頼のリトミック番組から、師匠から管理を受け継いだ「パンデイロウェブレッスン」もあり、かなりの本数となりました。

ラボの生徒は、最初はひとりからスタート。外部の仕事と無声映画もあるので、あまり人を増やせないのですが、スタート当初から6年間続けて通ってくれている子が何人もいることが本当に嬉しいです。

【音楽のよろず屋さん】

一例で、2022年4月のある週のスケジュール

18(月)シェケレワークショップの素材の準備、値段付け、機材配送

19(火)ラボでお誕生会 手品をする

20(水)午前 飯能の保育園でリトミック/午後 王子のスタジオでシェケレのリハーサル

21(木)午前 シェケレのスタジオリハーサル/午後 メディア記者会見にて演奏

22(金)ラボにて小学生クラブ こどもたちとおやつを食べる

23(土)午前 ラボで個人レッスン/午後 王子でシェケレの製作ワークショップ

24(日)無声映画の準備

「まり先生は、一体何屋さん?」と、よく言われます。楽器を作ったり、無声映画の音楽をつくったり、演奏したりとやっていることに一見、幅があるように見られがちです。

でも、自分の得意なこと、できることと、その結果仕事として関わらせていただいていることは、職種は異なりますがある程度重なることに気づきました。

『音がないものから 音が見えるように想像して それに一番近い音をつくること』

→無声映画、リトミック、楽器づくり

『動きと音を限りなく一致させること』

→無声映画、リトミック

『世界には、いろんなリズムがあるんだなぁ〜。リズムにも訛りがあるんだなぁ〜。」

→民族音楽、リトミック、無声映画、楽器づくり

『脳からアルファ波を出しつつ 遊びたいなぁ〜』

→こどもと本気で一緒になって遊ぶこと

『話すの苦手だから、脳内イメージは弾いちゃった方が楽」

→妄想しつつ即興演奏、リトミック

『両手は自動演奏モードにして脳を使わなくてもできるよ』

→絵本の即興弾き読み聞かせ、喋りながら弾くこと

音楽を好きで志す人は多くても、音楽は趣味として捉えられることが多く、お金がもらえる音楽の仕事はごく限られていることとと思います。そんな中で、自分ができることをお店のように並べるくらいのバラエティがあることは、本当に幸せだと思っています。

 

【まりりんの存在意義 むらさきmusicラボにできること】

こどもの頃から今に至るまで、ひとつだけ変わらないことは、時々宇宙と交信しているかのように「ぼぉ〜」っとしていることです。

ピアノの練習が嫌で逃げていた頃。犬の散歩のルートで、犬のリードを放せるくらいの広大な国有林の森がありました。犬が遊んでいる間、ぼぉ〜っとしつつ風と木の葉が擦れる音を聴いていました。

子育て中、息子が森で落ち葉と遊ぶのにはまっていました。息子を目で追いながら、鳥の声と小川の音を聴きながらぼぉ〜っとしていました。

こどもの頃から、現在にいたるまで、よくぼぉ〜っとしている私ですが、ブラジルの打楽器を演奏するようになって、「サウンドスケープ」(音の情景)で森や風、水などの音を再現してみると、とてもリアルに演奏できて、記憶の片隅に「自然音再生」の引き出しを見つけました。

たまたま国立映画アーカイブでアフリカの野生動物の無声映画をアフリカの楽器も交えて演奏する機会が与えられた時には、ぼぉ〜っとしている時には、知らず知らずに「自然音」をインストールしているんだと気づきました。

いろんなお子さんをみてきて、親御さんや先生の言うことを素直にきいて、課題に順調に取り組める人は、本当にすごいなぁ〜と感嘆することが多いです。生物多様性で、人間にもいろんなタイプがあり、私のように、時々ぼぉ〜っとしているので、何を考えているのかわからない人も、案外身近にいるかもしれません。

一度聴いた音を忘れないように楽譜に書いて記録する人もいれば、私のように、めんどくさい書くという作業をするくらいなら、覚えてしまった方が楽な人もいるかと思います。

音大時代は、授業中にメモやノートを取らないので、不真面目だと思われたこともあります。今は、私のように書くのが困難な子がいることも多く知られています。

むらさきmusicラボでは、そんな私の今までの「音楽ロード」を辿った経験から、「こんな場所があったら良いのになぁ〜」ということを実践している場所です。「まり先生」よりも「場所」の方が大事だと思っているので、私がいなくても私の理念を受け継ぐ人たちが、「ラボ」を続けていってくれれば良いと思って、今はその時のために良いおもちゃや素敵な絵本、感じの良い楽器を音楽スキルで得たお金で買い整えているところです。

この章では、「音楽ロード」について、ピックアップをしてみました。書き進めているうちに、師匠「小澤敏也」が教えてくれた『私にぴったりのパーカッション指導方法のこと』と、『打楽器の音色の感じ方』についても文章にまとめてみたい気持ちになりました。それはまた次の機会にしたいと思います。

長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。

お気軽にお問い合わせください murasakimusiclabo@gmail.com

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